トマス・ アクィナス
南イタリア、アクィノの近くにあるロッカ・セッカ城で貴族の家系に生まれた。
ナポリ大学でアリストテレス学者であるヒベルニアのペトルスの許で文法学、論理学、自然諸学を学ぶことによってアリストテレス哲学に親しむ。 1243年ドミニコ会に入会。当時の新しい修道会であるドミニコ会を快く思っていなかった家族はトマスを無理やり連れ戻し、ロッカ・セッカ城に一年以上も閉じ込めた。その後、家族にドミニコ会への入会を認められたトマスはケルンへ赴き、師となるアルベルトゥス・マグヌスに出会う。トマスはナポリ、ケルン、パリなどで学びパリ大学で教えた。
アリストテレス受容
トマスの時代は、文化的に進んでいたイスラム世界との交流によって、東方からギリシャ文化が再輸入された時代だった。
それまで論理学の著作が一部知られているだけだったアリストテレスの諸論がアヴィケンナやアヴェロエスなどの註解とともに流入し、西洋世界のアリストテレス受容に大きな影響をもたらした。
しかしラテン・アヴェロエス主義の
①すべての人間において単一の知性しか存在しない。
②世界の永遠性
という過激なアリストテレス解釈に立った主張は、①が個人の罪を免責し、②が神の創世と矛盾するため、異端的であると見なされた。パリ司教が219個の命題について教授を禁じた「1277年の禁令」はラテン・アヴェロエス主義を標的としたと言われる。
ラテン・アヴェロエス主義批判 〜知性単一説をめぐって
アリストテレス『デ・アニマ』の一節「この知性も(質料から)独立で、受動的でなく、混じり気のないもので、その本質からすれば現実態である。(中略)それは(身体から)分離されたとき、それがまさにあるところのものだけとなり、それだけが不死で永遠である。しかしわたしたちに記憶がないのは、それの方は受動的ではなく、受動的知性は可滅的なものだからである。」(第3巻第5章) この冒頭の「この知性」が解釈史のなかで「能動知性」という名が与えられ、多様な解釈がなされてきた。
アフロディシアスのアレクサンドロス(2〜3世紀頃)は能動知性を『形而上学』第12巻における第一動者としてのヌースと同一視した。そして各人においては身体とともに滅びる質料的知性(可能知性、受動知性)のみがあると主張した。 それ以来能動知性は、神的な知性とみなされてきた。
アレクサンドロスは人間の認識においては能動知性の役割を認めなかったが、テミスティオス(317-387)は個人には可能知性だけでなく、能動知性もあるとした。しかし人間に共通な知的概念を説明するために、能動知性は単一でなければならないと考えた。
アヴェロエス派は能動知性と可能知性を区別し、可能知性はそれ自体として非質料的で、身体の形相とはならず、すべての人間にとって単一の知性だと主張した。
トマスはこのアヴェロエス派をアリストテレスのテクストと不整合であると批判した。
「すべての人間に単一の知性があるならば、必然的な帰結として、知性認識するものは単一であることになり、そのことから意志するものも単一であることになって、人々を互いに異なるものにする、すべてのものをじぶんの意志決定によって使用するものが単一であることが結果する。ここからさらに(中略)人々のあいだで意志の自由な選択をめぐる差異は存在しないことになって、その点ではすべてのひとが同一であるという帰結が生じる。これはあきらかに偽であり、不可能である。(「知性の単一性について」第4章)
トマスは、霊魂を身体の形相とし、霊魂は質料がなくともそれ自体だけで存在すると考えた。
しかし受動知性の単一性も能動知性の単一性も認めなかった。
そして人間の霊魂は、理性的活動を行い、能動知性をもつことによって不滅であるとした。
神の存在証明
トマスはいわゆる「5つの道」によって神の存在を証明した。
第一の道:運動による証明
①世界のうちには運動するものが存在する。
②運動するものはすべて他のものによって運動する。
③運動させている他のものも運動しているとすれば、それもまた他のものによってそうしているけれども、この系列を無限に遡行することはできない。
④それゆえに、他のなにものによっても動かされない「第一動者」が存在する。「これをすべてのひとは神と理解する。」
第二の道:始動因による証明
①世界には始動因の秩序が存在する。
②自分自身の始動因であるものは存在しない。
③始動因の系列を無限に遡行することはできない。
④それゆえ、第一の始動因としての神が存在する。
第三の道:必然性による証明
①世界には偶然的なものが存在する。
②いっさいが偶然的なものであるなら、何も存在することができない。したがって
③偶然的なものを存在させる必然的なもの、
④それ自身によって必然的なもの、神が存在する。
第四の道:存在の秩序と完全性の度合いによる証明
①世界のうちには、より多く、あるいはよりすくなく善なるもの、真なるものが存在する。
②「より」とは最大限にそうであるものとの隔たりをあらわしている。
③たとえば、最大限に熱いものとしての火はいっさいの熱いものの原因であり、また最大限に真なるものは最大限に存在するものである。
④それゆえ、「存在と善のあらゆる完全性の原因」である神が存在する。
第五の道:目的因による証明
①世界においては、意志を持たない自然物も合目的的でありうる。
②それらは偶然的なしかたで、そうではありえない。
③たとえば、矢が目標に向かうのは、射手によってそうである。
④それゆえ、「すべての自然物がそれによって目的に秩序づけられる、知性的な或るもの」、神が存在する。
(『神学大全』第一部第二問)
存在の類比
トマスの存在の類比概念はアリストテレスの「存在(ens)は多様な意味で語られる」という思考にしたがっている。
上の第三の道にあるように、世界は偶然的であり、神は必然的であるため、世界と神を「同名同義的(univoce)」、まったく同等な意味で存在がを語られると見ることはできない。世界と神は「類比によって」共に存在する。(『真理論』第二問)
神は感覚経験から出発する人間固有の認識のあり方を通じて証明される。世界から神の存在へ到達することは可能である。
しかし他方で神は創造者であり、世界は被造物であるため神と被造物のあいだには存在論的に究極的な差異、乗り越え難い断絶がある。したがって「神と被造物とについては、或るものが同名同義的に述語されることが不可能である。」
しかし、神と被造物は純粋に同名”異義的”に語られるわけではない。もしそうなら神についてどのような論証も成り立たなくなる。
だから神と被造物について共通の述語が付加されるのは、類比にしたがって、つまり比例によってである。
それは「純粋な同名異義と単純な同名同義とのあいだにある、中間的なもの(『神学大全』第一部第二問)」であり、神についても「存在の類比」によって語られる。
存在の分有
トマスは古代末期やアラブ思想家たちのアリストテレスの新プラトン主義的解釈から解き放ち、アリストテレスの自然哲学を存在論的次元、あるいは存在そのものへの洞察へと深化させた。 しかし同時にトマスはプラトン的な分有の形而上学にも接近している。
「どのようなしかたにおいてであれ存在するもののいっさいは、神によって存在すると言わなければならない。というのも、ものごとが分有というしかたで或るもののうちに見出される場合は、それはかならず「そのことが本質的にそれに適合するもの」に原因を持つのでなければならないからである。鉄が火によって熱せられるものであるように、である。ところで、先ほど神の単純性に関連して述べたように、神は自存する存在そのものである。(中略)だから神以外のすべてのものは、それ自らの存在であるのではなく、存在を分有しているにすぎない」(『神学大全』第一部第四十四問)
神の存在からいっさいの存在者は流出する。この流出を私たちが創造と名付ける(同、第四十五問)
参考文献:
クラウス・リーゼンフーバー『中世思想史』
熊野 純彦 『西洋哲学史 近代から現代へ 』
岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』